意識焦点のシフト
意識の焦点がシフトした。
これまでは作られたものにフォーカスし、そのフォーカスしたものが消えゆくことで一喜一憂していた。
今は違う。
作られしものが出てくるところ、消えゆくものが融け合うところ、その無限のエネルギー場としての不動の背景に焦点がある。
この無限の背景は一切のものが分離なく融け合っている。
何が作られようが、何が滅びようが、気にしない。
それが安楽である。
認識
認識というのはどのような機能だろう。
認識がないとき、空がある。エネルギー場があるという言い方もできるだろうか。
エネルギーも、いろんなレベルのものが渾然一体としていて、分離がない。
しかし、認識という機能によって、そのエネルギー場から物質だったり思考だったり感情だったりを抽出することができる。
分離のない世界、つまり波動の世界から、認識機能によって、一瞬にしてリアルな分離した粒子による世界が生み出される。
では、この認識機能はどうやって働いているのだろうか。
全ては「そこにある」のだが、その中から特定のものだけ選んで認識し、具体化させる。
この仕組みが観念だったり執着だったりするのだろうが、それ以上はまだわからない。
もう一つ壁を越えるとわかるのだろうか。
心境
色付けのない存在感。
それに反比例して個人としての感覚のなさ。
今できることだけが思考に上がってくる。
それ以外の思考はまず出てこないし、出てきたとしてもたちまちかき消えてしまうだろう。
思考は直ちに行動に移すことができる。行動したとしても行動している感覚はない。
ただ気づいているだけ。
行動に移さなければ、思考はその場で消えていく。
いつも静かである。穏やかである。そのような背景に全ての知覚は現れ、消えていく。
全ての選択は完璧である。だから全ての選択肢は等価値である。
だから結果を想像することなくどの選択肢も自由に選ぶことができる。
どれを選んでも他の選択肢を選ばなかったことを気にすることがない。
これが本当に自由に選択するということである。
意識だけが存在する。認識されなければ、全ては意識である。
認識されることで物質が現れ、精神現象が起こる。
「今」全ては意識である。
認識したとたん、それは過去になる。
何もしなくても完璧に幸せそのものなのに、何かをして幸せになろうとしていたそのおかしみ。
やはり幸せの青い鳥はすぐそばにいた。
何かをしようとすればするほど実在に雲がかかっていった。
止まろう、留まろうとするのに本来は努力は要らないのに、慣性がついているので止まろうとするのに努力がいる。
欲は予測
よく(欲)とよそく(予測)は音としても、意味としても大変似ている。
私はこれまで以上に得られるであろう。
私はこれまで通り得られるであろう。
私はこれまで以下しか得られないであろう。
正しい見方からすると、全てが欲である。予測、期待と言ってもいい。
1つ目だけが欲なのではない。
2、3番目も欲である。
これらの欲を放棄していくことが重要である。
会社でサラリーマンとして働いていると、目標設定からは逃げられない。
しかし、実行に移す段において全く意識から外せば良いだけである。
目標と手段を思考の外に追いやれば、自然と各自ができることが淡々と進んでいくだけである。
自分が壁を突破するにあたって、常に役に立ったのがこの欲の放棄である。
1、2、3番目ともに欲を放棄する。
そうすれば、葛藤、あるいは絶望を経ることなく、後戻りのない成長を達成することができる。
実に安全な道である。
すべてのもの、すべての想念・感情は私のものではない。私ではない。
誰も何も所有できない。だからこそ、所有の権利という概念を作り、法律で守ってきたのだ。所有というのは自然界にはない。
物質だけではない。想念・感情ともに誰かが所有するということはない。
想念に気づいたとしても、それはその気づいた人のものではない。
感情が起きたとしても、それはその気づいた人のものではない。
本来は想念や感情も道端の小石と同じで放っておいていい程度のものである。
私のもの、という考えがなくなってくれば、「私」という考えもなくなってくる。
「私」と一切の物質・精神作用との関連付けがなくなれば、生まれることも死ぬこともなかった「それ」としての私が輝く。
苦しみである
それは突然起こった。
どんな想念が起きるかじっと待っていたときだった。
エネルギーが具現化しようとした瞬間、言い換えるなら、認識が起きようとした瞬間、「苦しみである」という直観とともにエネルギーが消散した。
もはやそのエネルギーが具現化することなく、それ以来苦しみのほとんどが消えてしまった。
もはや生きにくいということがなくなった。
今行動に移せる思考だけが起きてくる。それ以外の妄想は起きない。
たとえ起きたとしても速やかに消えていくだろう。
そして行動に移すかどうか何のしがらみもなく決定できる。
周りと隔絶したかのような静けさの中で。
壁をまた一つ越えた。そう感じた。
驚くほど仏教の第二禅に似た境地だ。
次の壁を越えたら、記録を残そうという気もなくなるかもしれない。
やる気とやらない気
仕事、勉強、何かをやらないといけないんだけど、いまいち捗らない。
やる気を出さないと、って思うけど体が思うように動かない。
そんなときって実はやる気はそれなりにあるんです。ただ、やらない気の方が勝ってるだけ。アクセル踏んでるけど、フットブレーキとサイドブレーキ両方かけてるだけ。
だから、アクセルばっかり気にする前に、サイドブレーキ解除してフットブレーキから足を離しましょう。
ブレーキかけなきゃ、そっとアクセル踏んだだけで動き出すから。
何がブレーキになってるんだろう。
それは結果を勝手に予想してるのかも。
それは自分と他人を比べてるのかも。
それは、そのことが本当はやらなくても良いことで、他に心底やりたいことがあるのかも。
何かを怖れて現状維持のために動けなくなってしまう。
でもその怖れって多分ほっとけば薄くなっていきます。
やる気で悩む前に、なんでやりたくないか気持ち・感情とじっくり向き合ってみよう。